今回はオートマタ(Automata)がどのような人物が、どのような環境で開発したのかを調べてみました。といっても、ヨーロッパのカラクリ人形を調べようと思ったのですが、敷居が高かったので、とりあえず日本のからくり作家であり「弓曳き童子」で有名な「田中久重氏」についてWikiで調べてみました。
こちらは私が名古屋市科学館で撮影した茶運び人形です。
材質や言い方は違えど、オートマタ(Automata)でありましょう。
——原文ここから——
田中 久重(たなか ひさしげ、寛政11年9月18日(1799年10月16日) – 明治14年(1881年)1月11日)は江戸時代から明治にかけて「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれ活躍した日本の発明家である。筑後国久留米(現在の福岡県久留米市)生まれ。久重が創設した田中製造所は後年、東芝となる。
幼少期 [編集]1799年9月18日(1799年10月16日)、筑後国久留米(現在の福岡県久留米市)の鼈甲細工師・田中弥右衛門の長男として生まれた。幼名は儀右衛門。幼い頃から才能を発揮し、五穀神社(久留米市通外町)の祭礼では当時流行していたからくり人形の新しい仕掛けを次々と考案して大評判となる。この間九州各地や大阪・京都・江戸でも興行を行い、その成功により日本中にその名を知られる。
成人後 [編集]
万年時計こと万年自鳴鐘(和時計)天保5年(1834年)には大坂の伏見(現在の大阪市中央区伏見町)に移り懐中燭台、無尽灯(圧縮空気により灯油を補給する灯明)などを考案し「からくり儀右衛門」と呼ばれ人気を博する。その後京都へ移り、天文学や蘭学などの西洋の文化技術を学ぶ。嘉永4年(1851年)には、「万年自鳴鐘」を完成させた。2011年現在、重要文化財に指定されている。
「万年時計」として知られるこの時計は平成16年(2004年)に東芝、セイコーなどの研究者によって分析・復元されレプリカが平成17年(2005年)の愛・地球博で展示された。この復元作業には100人の技術者が携わり最新の機材を投入したが、解析に時間がかかり、愛・地球博の開催日までに動力の発条(ぜんまいばね)に使われている分厚い真鍮板を調達できなかった事などを理由に展示されたレプリカは完璧な復元には至らなかった(開催中はステンレス製のぜんまいが代用された)。現在「万年自鳴鐘」の原品は国立科学博物館に寄託され、平成19年(2007年)には機械遺産(22号)に認定された。
田中久重が製造した蒸気機関車の模型(嘉永6年(1853年))やがて、大坂から佐賀に移住した久重は、嘉永6年(1853年)、佐野常民の薦めで蘭学狂いと言われた鍋島直正が治める肥前国佐賀藩の精煉方に着任し国産では日本初の蒸気機関車及び蒸気船の模型を製造。文久3年(1863年)、佐賀藩の反射炉で初の国産アームストロング砲を完成させ佐賀藩の興隆に尽くす。元治元年(1864年)には久留米藩に帰り藩の軍艦購入や銃砲の鋳造に携わり、殖産興業等にも貢献した。
田中製作所の設立と晩年 [編集]明治6年(1873年)に上京。明治8年(1875年)に東京・銀座に電信機関係の製作所・田中製造所を設立。明治14年(1881年)1月11日、82年の生涯に幕を閉じた。田中製作所は、養子の2代目久重が引き継ぎ、これが現在の東芝の基礎となった。
語録 [編集]高い志を持ち、創造のためには自らに妥協を許さなかった久重は以下の言葉を残している。 「知識は失敗より学ぶ。事を成就するには、志があり、忍耐があり、勇気があり、失敗があり、その後に、成就があるのである」
——原文ここまで——※参照
※引用元http://ja.wikipedia.org/
からくり作家で調べたら「東芝」の創設者様が検索にヒットしてしまいました。
この偉大な人物は「べっ甲細工職人の長男」と言う環境で育ち、幼少時より才能を発揮し「東洋のエジソン」「からくり儀右衛門」と呼ばれ、その後は多方面で活躍をされた人だったようで御座います。
興味深いのは西洋だけでなくこの日本においても、200年前に似たようなカラクリ人形を作っていたと言う事です。そして、そのカラクリ人形の開発が(おそらく)一人で成されているのではないかという点。
何のために、誰のために、それを開発したのかはわかりませんが、発明家と呼ばれる人は、開発そのものが楽しくて仕方がない人種なのかもしれません。しかしながら、その思考は、どうやら凡人に理解できるものではなさそうな気がします。次回は第8回と言う事で、ANOBAR8の総集編。ANOBAR9へ欲しい機能について酔っ払いの戯言を書いていきたいと思います。