今回は城の日と言う事で、4月6日に訪問する事にしました。この日は「しろの日記念事業」として重要文化財である「西北隅櫓」と「乃木倉庫」の特別公開があるのです。何度も見に行ってますが、どうせ行くなら城の日がベストですね。なお年に数回ほど公開してますので、この日を逃したとしてもあせる必要は御座いません。私用で法務局に用事がありましたので、最上階の食堂コーナーより城を眺めます。
意外な穴場です。
天気が良いですね。
さて、市役所駅から、
東門方面へと、
歩いていきます。
平日だけに、
人も少ないです。
この奥にあるのが、
愛知県体育館。大相撲名古屋場所はここで行われています。
そしてこれが東門。
桜と門はよく合います。
入場料は500円です。
今日は人ごみで砂埃が立たないですね。
休日では大渋滞する桜の名所ですが平日はこんなに静かです。
おもてなし武将隊。
清正公石曳きの像。遠目では秀吉かと思いましたが、清正公は築城に携わったとの事です。
おそらく補修中の石垣の一部。
去年に続き本丸御殿復元工事中のようです。
見た目には、
かなり進んでいるようです。
視界が開けると、名古屋城が見えてきました。
城には桜が似合いますね。
昔の人も、そう思ったに違いありません。
西北隅櫓と乃木倉庫、公開中です。
その前に、御深井丸展示館へ寄り。
いつものこの場所で、
ちょっと一服。
目の前に椿が咲いております。
軒越しに見る桜も良い物です。
満開ではありませんが、
金曜日に雨が降る天気予報でしたので。
天気の良い日に無理してでも来て正解です。
さて、次へ向かいます。
あそこに見えますのが乃木倉庫です。
今回はこの乃木倉庫を、
外から見るだけでなく、
中から見物してみます。
ここが入り口です。
中は意外とあっさり。
一寸したパネルが置いてあるだけ。
窓から見た外の風景。
障子
瓦
戦時中は第二弾薬庫としても利用されていたみたいですね。
次に向かうは西北隅櫓。
キャッスルホテルが良く見えます。
この建物が、元清洲城であるという話もあります。観光ボランティアガイドさんの話では、清洲城とその近くにあった寺などから材料を調達して立てられたのではないかという話でした。
https://hayah.info/?p=1107
ここは何度も来てますが、
最大の見所は
この櫓の最上階から見る名古屋城でしょうねえ。
ズームイン
対岸の風景。昔は対岸は単なる土手で、石垣もなかったのです。
櫓の中は広々とした空間。
それでは外へ出ます。
亀が堀を気持ちよさそうに泳いでます。
西北隅櫓近くの庭園も綺麗です。
この池の、
裏側あたりが、
花見の意外な穴場かも。
鳥がいます。
水は濁っていないようです。
近くにあるベンチに座るには新聞紙を持ってくると良いでしょうね。
見事に咲いた
桜です。
ここは鳥の鳴き声がよく聞こえる場所です。水辺だからでしょうね。
ここにも鳥。いえ、これはお堀の方です。カラスが行水しておりました。
ことわざどおり、確かに手短です。
ここから見る名古屋城は観光ガイドによくあるアングルです。
途中、木の根っこから花が咲いている桜を発見。
ど根性桜と命名しました。
最後にケーキとコーヒーで食後の一服。
今日は天気だけど週末は雨かな?
それでは。
Archive for 4月, 2011
名古屋城へ花見に(城の日2011)
水曜日, 4月 6th, 2011お宝BOXの中身 その8 チビッコでんわ
日曜日, 4月 3rd, 2011
さて今回のお宝は「ちびっこでんわ」です。
未開封品でしたが
あっさり開封しました。
今時、ダイヤル式電話なんて見ないですよねえ、と言いたいところですが、弊社には1台だけダイヤル式電話が残されています。(しかも現役)
なぜかそろばんが装備されており、貯金箱としての機能もあるようです。
あくまで、子供のおもちゃです。
うーん。これは。ひみつのアッコちゃんかな。となると1970年代の玩具ですかな。
「テクマクマヤコン テクマクマヤコン」当時の子供はそう呟いたかも。
よく考えたらひみつのアッコちゃんは赤塚不二夫先生の作品だったのですねえ。記憶が曖昧で魔法使いサリーと混同しそうです。
ちびっ子、そういえば、「ちびっ子」ってあんまり聞かない言葉になりましたね。
グーフィー(かな?ディズニーですけど)
ケムンパス(でやんす)
みなしごハッチ(タツノコ作品)
リス(詳細不明ですがクッピーラムネを思い出します)
ブタ(三匹の子豚かな)
ドナルドダック(と思う)
ニャロメ(赤塚不二夫先生の作品)
ライオン(詳細不明)
ミッキーマウス(あのディズニーが許可するとは思えないですが)
ムーミン
なんだか版権的に豪華です。当時はこういうコラボレーションが黙認されていた時代だったのかもしれませんですが時代を感じる一品ですね
ANOBAR8 第6回 アノバーエイト(ANOBAR 8)のコンセプト
土曜日, 4月 2nd, 2011
デザイン的にも格好良いアノドス文字
私はIT用語に疎いので、少し翻訳しながらANODOS社のコンセプトを転載してみました。
——原文ここから——
私がソフトウェア(コンピュータを動作させる手順・命令をコンピュータが理解できる形式で記述したもの。※1参照)とサービス(あるコンピュータから通信ネットワークを通じて別のコンピュータへ提供される何らかの機能や、そのような機能を実現するソフトウェアなどのこと※1参照)の開発に携わりはじめた1990年代初頭、開発者たちは日々の業務に明るい未来を感じていました。この時代、OSや通信プロトコル(ネットワークを介してコンピュータ同士が通信を行う上で、相互に決められた約束事の集合。※1参照)の標準化が進み、ソフトウェアとサービスは世の中を変える原動力へと変貌を遂げたのです。しかし、開発を手がけるほど私は限界を知り、こう確信するに至りました。“ともにハードウェア(コンピュータを構成している電子回路や周辺機器などの物理的実体※1参照)を手がけなければ、創造的なプロダクト(製品)を生み出せない”と。開発者の方々なら、きっと共感してくださるでしょう。しかし、実行には大きなハードルがそびえてしまったことも、おそらくご理解いただけるはずです。
コンピュータシステムが高度化すると共に、プラットフォーム(あるソフトウェアやハードウェアを動作させるために必要な、基盤となるハードウェアやOS、ミドルウェアなどのこと。※1参照)としての完成度も高まりました。モジュラー(端子※1参照)化されていくアーキテクチャ(ハードウェア、OS、ネットワーク、アプリケーションソフトなどの基本設計や設計思想※1参照)の中で、開発者たちは自らの専門分野を深化させると共に、業務スケールを拡大させ、プラットフォーム導入の正しさを再認識しました。しかし一方でデメリットを指摘しなければなりません。自らの領域に没頭できる環境が、やがては開発者の想像力を奪っていったのではないでしょうか。プラットフォームが成熟すればする程に、少なからずの開発者が“垣根を越えること”の困難さをおそれ、垣根の向こうや全体像を思い描く機会を手放していきました。実は、私自身もその一人だったのです。
しかし、ある日私は“オートマタ”に出会いました。簡単に言うと、これはゼンマイ仕掛けで動く“からくり人形”であり、初歩的なプログラムを搭載したロボットの先駆けでした。開発者たちが忘れた“ハードウェアとソフトウェアの創造的融合”に200年前の先人たちは果敢に取り組んでいたのです。しかも、彼らの作品は当時の人ばかりでなく、21世紀の子供たちを惹きつけるほどに魅力的な存在でした。美しいオートマタに私は強い衝撃を受け、こう考え直したものです。かつて実現できたものが21世紀に不可能なはずはない、と。
かくして、私はかつての確信 「ハードウェアとソフトウェア、サービスを統合した魅力的なプロダクトの提供」 に立ち返ります。もちろん私自身、その困難さは理解しています。創造的融合には労力とコストが必要ですし、達成には長い時間を要するでしょう。
最初の試みは拙いかもしれません。しかし、私ひとりではなく、理想を持った開発者たちが集えば、やがては心躍るようなプロダクトを創造できるはずです。200年前に形となったものが、今できないはずはないのです。では、そのために私は今何をなすべきか。至った結論とは、恐れずに初めの第一歩を踏み出すこと、できるだけ多くの人々に参加を呼びかけることでした。
そのための器こそ、アノドスです。確かに会社としての形態を取ってはいます。しかし、アノドスの本質とはハードウェア、ソフトウェア、サービスの開発者と、お客様に開かれている創造的なコラボレーションユニットです。その目的はただひとつ。理想と情熱を持ち寄って、200年後の人々を微笑ませるようなプロダクトを創造していくこと。私の言葉にシンパシーを覚えた皆さんと、アノドスという器を満たしていくことを願ってやみません。
——原文ここまで——
原文引用元
http://anodos.co.jp/concept/index.html
※1 IT用語引用元
http://e-words.jp/
どうやらANODOS社の目標としては「200年後の人々を微笑ませるようなプロダクトの創造」であり、具体的には「ハードとソフト、そしてサービス(ネットワーク)を統合した魅力的製品の開発」という事のように受け取れます。そして開発に当たっては「多くの人から垣根を越えたアイデアを募る」という事なのかもしれません。大雑把に解釈すれば「現代のオートマタを創造する」という事でしょうか。こうなると「オートマタ」が気になってきます。200年前のオートマタ開発者はどのような人物で、どのような環境が与えられていたのでしょう。次回はオートマタの歴史を調べて行きたいと思います。それでは。